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《第11話》 父は、町のために動くリーダーだった
松浦に戻ってから、 私は父の別の顔を見るようになりました。 料理人としての父ではなく、経営者としての父です。 父は、松浦市のために、町おこしに力を入れていました。 誰かに指示されて動く人ではありません。自然と人が集まり、気づけば中心にいる。 一方、リーダータイプの人間だそうです。 ただ、判断が早く、腹が据わっていて、人が安心してついていける。親分肌、という言葉が一番近いかもしれません。 父の周りには、いつも人がいました。 相談を持ちかける人。一緒に動く人。背中を預ける人。 父は多くを語りません。でも、一度決めたことは、簡単には曲げませんでした。 その一つが、松浦太鼓でした。 何もないところから、人を集め、音を作り、場を作る。 太鼓の進む鳴ると、町が少しだけ、前を向く。 父は、その中心に立ちながら、主体的になろうはしませんでした。 続く形を作り、次の世代に残します。 その姿を、私は少し離れた場所から見ていました。 今後といえば、あこがれていました。 町の中で信頼され、人に頼られ、誰かのために動ける大人。 「こういう男になりたい」そう思っていたと思います。 言葉にした記憶はありません。ただ、目で追っていました。 この父の背中は、後になって、私の中で一つの基準になります。 人の上に立つというより、人の中心に立つ。 コマンドするのではなく、流れを作ります。 この感覚は、経営を始めてからも、何度も顔を出します。 良い時も、悪い時も。 父は、町のために動く人でした。 そして私は、その背中を見ながら育った。 それで十分だったと思います。
《第11話》 父は、町のために動くリーダーだった
松浦に戻ってから、 私は父の別の顔を見るようになりました。 料理人としての父ではなく、経営者としての父です。 父は、松浦市のために、町おこしに力を入れていました。 誰かに指示されて動く人ではありません。自然と人が集まり、気づけば中心にいる。 一方、リーダータイプの人間だそうです。 ただ、判断が早く、腹が据わっていて、人が安心してついていける。親分肌、という言葉が一番近いかもしれません。 父の周りには、いつも人がいました。 相談を持ちかける人。一緒に動く人。背中を預ける人。 父は多くを語りません。でも、一度決めたことは、簡単には曲げませんでした。 その一つが、松浦太鼓でした。 何もないところから、人を集め、音を作り、場を作る。 太鼓の進む鳴ると、町が少しだけ、前を向く。 父は、その中心に立ちながら、主体的になろうはしませんでした。 続く形を作り、次の世代に残します。 その姿を、私は少し離れた場所から見ていました。 今後といえば、あこがれていました。 町の中で信頼され、人に頼られ、誰かのために動ける大人。 「こういう男になりたい」そう思っていたと思います。 言葉にした記憶はありません。ただ、目で追っていました。 この父の背中は、後になって、私の中で一つの基準になります。 人の上に立つというより、人の中心に立つ。 コマンドするのではなく、流れを作ります。 この感覚は、経営を始めてからも、何度も顔を出します。 良い時も、悪い時も。 父は、町のために動く人でした。 そして私は、その背中を見ながら育った。 それで十分だったと思います。
《第10話 》「お坊ちゃま」と呼ばれていた頃のこと
松浦に戻ってから、私は町の人たちから「お坊ちゃま」と呼ばれることがありました。 旅館の御曹司。代々続いてきた家。名前を知っている大人が多い環境。 特別なことをしたわけではありません。ただ、そういう立場として見られていた。 町の人は、優しく、そして、少し甘かった。 できたことは褒められ、失敗しても、大きく叱られることはない。 どこかで、「大丈夫だよ」という空気が、常にありました。 私はそれを、特別だとは思っていませんでした。 そういうものだと思っていた。 でも今振り返ると、確かに、おだてられて育ったのだと思います。 調子に乗っていた、というよりも、疑わずに受け取っていた。 自分は、なんとかなる側の人間だ。 理由は説明できないけれど、そう感じていた。 この感覚は、自信というより、前提でした。 努力しなくてもいい、という意味ではありません。 ただ、失敗しても、誰かが受け止めてくれる。 その安心感が、いつも背中にあった。 町の中で、顔を覚えられ、名前を呼ばれ、期待される。 それは、子どもにとって、心地いい環境です。 同時に、現実の厳しさをまだ知らなくていい環境でもありました。 この頃の私は、立ち止まって考えることより、流れに乗ることを覚えていきます。 「期待されている自分」「大丈夫だと思われている自分」 その像に、自然と寄っていく。 後になって、この感覚は、私の判断に大きな影響を与えることになります。 良い意味でも、悪い意味でも。 松浦での生活は、穏やかで、守られていました。 そして、その穏やかさの中で、私は、世の中の厳しさをまだ知らずにいました。
《第10話 》「お坊ちゃま」と呼ばれていた頃のこと
松浦に戻ってから、私は町の人たちから「お坊ちゃま」と呼ばれることがありました。 旅館の御曹司。代々続いてきた家。名前を知っている大人が多い環境。 特別なことをしたわけではありません。ただ、そういう立場として見られていた。 町の人は、優しく、そして、少し甘かった。 できたことは褒められ、失敗しても、大きく叱られることはない。 どこかで、「大丈夫だよ」という空気が、常にありました。 私はそれを、特別だとは思っていませんでした。 そういうものだと思っていた。 でも今振り返ると、確かに、おだてられて育ったのだと思います。 調子に乗っていた、というよりも、疑わずに受け取っていた。 自分は、なんとかなる側の人間だ。 理由は説明できないけれど、そう感じていた。 この感覚は、自信というより、前提でした。 努力しなくてもいい、という意味ではありません。 ただ、失敗しても、誰かが受け止めてくれる。 その安心感が、いつも背中にあった。 町の中で、顔を覚えられ、名前を呼ばれ、期待される。 それは、子どもにとって、心地いい環境です。 同時に、現実の厳しさをまだ知らなくていい環境でもありました。 この頃の私は、立ち止まって考えることより、流れに乗ることを覚えていきます。 「期待されている自分」「大丈夫だと思われている自分」 その像に、自然と寄っていく。 後になって、この感覚は、私の判断に大きな影響を与えることになります。 良い意味でも、悪い意味でも。 松浦での生活は、穏やかで、守られていました。 そして、その穏やかさの中で、私は、世の中の厳しさをまだ知らずにいました。
《第9話 》小学三年生の転校生として、そこに立っていた
小学三年生の時、私は松浦の志佐小学校へ転校しました。 佐世保から戻ってきた私にとって、そこは「知っているはずの場所」であり、「初めて立つ場所」でもありました。 教室に入った時のことは、今でも、はっきりと覚えています。 前に立たされ、名前を言い、席に向かう。 それだけのことなのに、空気が一斉にこちらを向く感覚がありました。 私は色が白く、周りの子どもたちとは少し見た目が違っていたのかもしれません。 「マネキン人形」 そう呼ばれることがありました。 悪意があったかどうかは、正直、わかりません。子ども同士の、無邪気な言葉だったのだと思います。 それでも、転校生という立場と相まって、自分が「外から来た存在」であることは、はっきりと伝わってきました。 救いだったのは、幼馴染の同級生がいたことです。 顔見知りがいる。名前を知っている人がいる。それだけで、教室の居心地は大きく変わりました。 完全に一人ではなかった。 特別に目立つこともなく、かといって、完全に溶け込んでいるわけでもない。 その中間で、私は少しずつ、この場所に自分の立ち位置を作っていきました。 この経験は、後になって、何度も思い出すことになります。 新しい場所に入り、外から来た者として見られ、それでも、時間をかけて受け入れられていく。 人の輪に入るには、声を張り上げる必要はない。 ただ、そこに居続けること。 この感覚は、後の私の人生で、何度も役に立ちました。 松浦での生活は、こうして、少しずつ始まっていきました。
《第9話 》小学三年生の転校生として、そこに立っていた
小学三年生の時、私は松浦の志佐小学校へ転校しました。 佐世保から戻ってきた私にとって、そこは「知っているはずの場所」であり、「初めて立つ場所」でもありました。 教室に入った時のことは、今でも、はっきりと覚えています。 前に立たされ、名前を言い、席に向かう。 それだけのことなのに、空気が一斉にこちらを向く感覚がありました。 私は色が白く、周りの子どもたちとは少し見た目が違っていたのかもしれません。 「マネキン人形」 そう呼ばれることがありました。 悪意があったかどうかは、正直、わかりません。子ども同士の、無邪気な言葉だったのだと思います。 それでも、転校生という立場と相まって、自分が「外から来た存在」であることは、はっきりと伝わってきました。 救いだったのは、幼馴染の同級生がいたことです。 顔見知りがいる。名前を知っている人がいる。それだけで、教室の居心地は大きく変わりました。 完全に一人ではなかった。 特別に目立つこともなく、かといって、完全に溶け込んでいるわけでもない。 その中間で、私は少しずつ、この場所に自分の立ち位置を作っていきました。 この経験は、後になって、何度も思い出すことになります。 新しい場所に入り、外から来た者として見られ、それでも、時間をかけて受け入れられていく。 人の輪に入るには、声を張り上げる必要はない。 ただ、そこに居続けること。 この感覚は、後の私の人生で、何度も役に立ちました。 松浦での生活は、こうして、少しずつ始まっていきました。
《第8話》 祖父が、佐世保まで頭を下げに来た日
祖父が佐世保まで来ました。 事前に詳しい説明があったわけではありません。ただ、「会いに来ます」が伝えられていたように思います。 祖父は、松浦で旅館を守り続けた人でした。 感情を表に出すタイプではなく、ありがとうや自分の立場を下げるようなことをする人ではなかったと聞いています。 その祖父が、佐世保まで足を運び、頭を下げました。 「旅館に帰って来てくれ」 理由は明確でした。旅館の経営が、厳しくしていました。 人の手も足りないず、先行きも見えず、このままでは続けられない。 家として、もう一度、力を貸してほしい。 それはお願いであると同時に、家からの要求でした。 かつて、強く反対し、家を出ることになった相手に対して。 その事実だけで、この出来事の重さは十分だと思います。 私はまだ幼く、その場の空気を正確に理解できていたわけではありません。 ただ、大人たちの表情が、それまでとは違っていたことは覚えています。 静かで、張り詰めていて、簡単な答えが用意されていない空気。 父と母は、すぐに返事をしたわけではありません。 私たちの生活。ずっと続けてきた仕事。そして、家族としての時間。 それらを、一度、置いても、戻るべきかどうか。 その選択は、簡単なものではなかったはずです。 両親は松浦へ戻ることを選びました。 ただ、祖父が頭を下げたこと。旅館が厳しい状況にあったこと。 ただ、事実として残っています。 この出来事は、家族の物語であると同時に、私の人生の方向性を決めた点でした。 佐世保での生活は、ここで一区切りします。 そして私は、再び「家の歴史」の中に足を踏み入れることになります。
《第8話》 祖父が、佐世保まで頭を下げに来た日
祖父が佐世保まで来ました。 事前に詳しい説明があったわけではありません。ただ、「会いに来ます」が伝えられていたように思います。 祖父は、松浦で旅館を守り続けた人でした。 感情を表に出すタイプではなく、ありがとうや自分の立場を下げるようなことをする人ではなかったと聞いています。 その祖父が、佐世保まで足を運び、頭を下げました。 「旅館に帰って来てくれ」 理由は明確でした。旅館の経営が、厳しくしていました。 人の手も足りないず、先行きも見えず、このままでは続けられない。 家として、もう一度、力を貸してほしい。 それはお願いであると同時に、家からの要求でした。 かつて、強く反対し、家を出ることになった相手に対して。 その事実だけで、この出来事の重さは十分だと思います。 私はまだ幼く、その場の空気を正確に理解できていたわけではありません。 ただ、大人たちの表情が、それまでとは違っていたことは覚えています。 静かで、張り詰めていて、簡単な答えが用意されていない空気。 父と母は、すぐに返事をしたわけではありません。 私たちの生活。ずっと続けてきた仕事。そして、家族としての時間。 それらを、一度、置いても、戻るべきかどうか。 その選択は、簡単なものではなかったはずです。 両親は松浦へ戻ることを選びました。 ただ、祖父が頭を下げたこと。旅館が厳しい状況にあったこと。 ただ、事実として残っています。 この出来事は、家族の物語であると同時に、私の人生の方向性を決めた点でした。 佐世保での生活は、ここで一区切りします。 そして私は、再び「家の歴史」の中に足を踏み入れることになります。
《第7話 》佐世保で過ごした、静かで賑やかな幼少期
佐世保での生活は、私にとって最初の「日常」でした。 小学2年生になる頃まで、私は佐世保で暮らしていました。 その頃の父は、料理人として名が知られる存在だったと聞いています。 父のもとには、多くのお弟子さんが集まっていました。 家の中に、大人の男たちが出入りする環境。真剣な表情と、張り詰めた空気。仕事の話と、技術の話。 旅館とは形が違いますが、人が集まり、仕事が中心にある暮らしは、どこか実家と似ていました。 父は多くを語る人ではありませんでした。ただ、背中で仕事をしている人だったと思います。 包丁を握る姿。仕込みに向かう集中した時間。お弟子さんたちとの距離感。 子ども心に、「仕事とは、こういうものなのかもしれない」そんな印象を持っていた気がします。 母は、家庭を支えながら、父の仕事を理解し、その場を整えていました。 両親は、家を出るという選択をしましたが、不安定な暮らしをしていたわけではありません。 少なくとも、幼い私の目には、生活は落ち着いていて、安心できるものでした。 学校に通い、友だちがいて、帰る家がある。 特別な出来事は、あまり覚えていません。 ただ、「守られていた」という感覚だけが、はっきりと残っています。 父は、多くの人に囲まれていました。 尊敬され、頼られ、人が自然と集まる。 この姿は、後になって私の中で一つの基準になります。 人の上に立つというより、人の中心に立つ。 集団をまとめるというより、場を成立させる。 この感覚は、意識して学んだものではありません。 ただ、子どもとして、毎日見ていた風景でした。 佐世保での時間は、短いものでしたが、私の中では、一つの完成した世界として残っています。 このあと、私は再び松浦へ戻ることになります。 守られていた場所から、「家の歴史」と再び向き合う場所へ。 その移動は、当時の私には理解できないまま、静かに起こりました。
《第7話 》佐世保で過ごした、静かで賑やかな幼少期
佐世保での生活は、私にとって最初の「日常」でした。 小学2年生になる頃まで、私は佐世保で暮らしていました。 その頃の父は、料理人として名が知られる存在だったと聞いています。 父のもとには、多くのお弟子さんが集まっていました。 家の中に、大人の男たちが出入りする環境。真剣な表情と、張り詰めた空気。仕事の話と、技術の話。 旅館とは形が違いますが、人が集まり、仕事が中心にある暮らしは、どこか実家と似ていました。 父は多くを語る人ではありませんでした。ただ、背中で仕事をしている人だったと思います。 包丁を握る姿。仕込みに向かう集中した時間。お弟子さんたちとの距離感。 子ども心に、「仕事とは、こういうものなのかもしれない」そんな印象を持っていた気がします。 母は、家庭を支えながら、父の仕事を理解し、その場を整えていました。 両親は、家を出るという選択をしましたが、不安定な暮らしをしていたわけではありません。 少なくとも、幼い私の目には、生活は落ち着いていて、安心できるものでした。 学校に通い、友だちがいて、帰る家がある。 特別な出来事は、あまり覚えていません。 ただ、「守られていた」という感覚だけが、はっきりと残っています。 父は、多くの人に囲まれていました。 尊敬され、頼られ、人が自然と集まる。 この姿は、後になって私の中で一つの基準になります。 人の上に立つというより、人の中心に立つ。 集団をまとめるというより、場を成立させる。 この感覚は、意識して学んだものではありません。 ただ、子どもとして、毎日見ていた風景でした。 佐世保での時間は、短いものでしたが、私の中では、一つの完成した世界として残っています。 このあと、私は再び松浦へ戻ることになります。 守られていた場所から、「家の歴史」と再び向き合う場所へ。 その移動は、当時の私には理解できないまま、静かに起こりました。
《第6話 》生まれた後に、家を出た両親の話
私の両親のことを、ここで書いておこうと思います。 母は、実家の旅館の長女でした。父は、その旅館で働いていた料理人です。 今なら珍しい話ではないかもしれませんが、当時としては、当面歓迎される関係ではありませんでした。 特に、祖父の反対は強かったと聞きます。(昔の料理人は流れ物が多くて職人気質が激しかったのです) 旅館を継ぐ家長女。そこに居る料理人。 立場や役割、家の都合。 私が生まれたあと、両親は実家を出ました。 かけおちです。 大げさな言葉に聞こえるかも知れませんが、実際には、身一つで場所を変えなかったしかなかった、今の話だったのだと思います。 引っ越し先は、佐世保でした。 旅館のある松浦を離れ、家業からも距離を置いて、新しい生活を始めました。 私自身、その時の記憶はかすかに残ってます。ただ、この事実は、後になって、静かに聞こえてきます。 代々続いてきた家。名前が残る歴史。商売をやめない前提。 その流れから、両親は一度、外に出た。 継ぐことよりも、一緒に生きることを選んだ。 この選択は、祖川家の歴史の中では、例外だったのかもしれません。 私は、守られた家に生まれ、そのあと、その家を離れる選択の結果として育ちました。 この二つの矛盾した要素が、私の中に、同時に存在しています。 「続ける家」と「暫定決断」。 後になって振り返ってみると、私が人生の中で何度も「一度壊してから考える」ような選択をしてきた理由は、ここにあったのかもしれない。 この時点では、まだ誰も、その後に起こることは知りません。 ただ、家を出るという決断が、確かに一度、終わっていた。 ただいまは、事実として、私の人生の最初の背景になっています。
《第6話 》生まれた後に、家を出た両親の話
私の両親のことを、ここで書いておこうと思います。 母は、実家の旅館の長女でした。父は、その旅館で働いていた料理人です。 今なら珍しい話ではないかもしれませんが、当時としては、当面歓迎される関係ではありませんでした。 特に、祖父の反対は強かったと聞きます。(昔の料理人は流れ物が多くて職人気質が激しかったのです) 旅館を継ぐ家長女。そこに居る料理人。 立場や役割、家の都合。 私が生まれたあと、両親は実家を出ました。 かけおちです。 大げさな言葉に聞こえるかも知れませんが、実際には、身一つで場所を変えなかったしかなかった、今の話だったのだと思います。 引っ越し先は、佐世保でした。 旅館のある松浦を離れ、家業からも距離を置いて、新しい生活を始めました。 私自身、その時の記憶はかすかに残ってます。ただ、この事実は、後になって、静かに聞こえてきます。 代々続いてきた家。名前が残る歴史。商売をやめない前提。 その流れから、両親は一度、外に出た。 継ぐことよりも、一緒に生きることを選んだ。 この選択は、祖川家の歴史の中では、例外だったのかもしれません。 私は、守られた家に生まれ、そのあと、その家を離れる選択の結果として育ちました。 この二つの矛盾した要素が、私の中に、同時に存在しています。 「続ける家」と「暫定決断」。 後になって振り返ってみると、私が人生の中で何度も「一度壊してから考える」ような選択をしてきた理由は、ここにあったのかもしれない。 この時点では、まだ誰も、その後に起こることは知りません。 ただ、家を出るという決断が、確かに一度、終わっていた。 ただいまは、事実として、私の人生の最初の背景になっています。